サンクスギビングに思うこと

 サンクスギビングの最中に、二人のアメリカ人から「あなたの国では感謝祭を祝福するの?」と聞かれた。この国には色々な文化的、宗教的背景の人がいるってことはみんな心得ているから、自分が祝う行事も他人は祝わないし、他人が祝うことも自分には無関係ということもある。例えば、日本ではキリスト教の信仰に関わらず、クリスマスになるとサンタさんがやってきて、こどもたちはプレゼントがもらえるということになっているけれども、ここでは、必ずしもみんながクリスマスを祝い、サンタさんにおもちゃをもらうわけではない。ユダヤ教徒はキリストに対する信仰がないので、当然キリストの誕生を祝ったりしない。(同じ季節に、ハヌカーChanukkahというお祭りがあって、クリスマスのお祝いではないけれども、やはりギフトのやりとりをしたり家をデコレートしたりする。ハヌカーは宗教上は対した意味はないのだけれども、周囲のキリスト教徒が楽しそうにしているんで、年々クリスマスのように派手で仰々しいものになってきたのだとか。シリア王アンティオコス四世AntiochusⅣの同化政策と圧制への反逆に起源をもつこのお祭りが、アメリカではもっともアメリカ文化に同化して俗なお祭り騒ぎになってしまっているのを皮肉とみるむきもある。アメリカの中でも特にジューイッシュ:ユダヤ教徒の人口が集中しているニューヨークでは、この季節になると、ハヌカーに飾られるろうそく立てやダビデの星のマーク入りのチョコ、それにDreidleドレイドルというコマを町でよく見かける。)ユダヤ人の多い地域の小学校で、クリスチャンの子がサンタさんを信じているところへ、ジューイッシュの子が「サンタさんなんていないよ」と言って、クリスチャンの子を泣かせてしまうというエピソードも耳にした。それと同じ調子で、わたしが日本人とわかると、「あなたの国ではクリスマスを祝わないでしょう、ブッディスト:仏教徒の国なんだから」という枕詞をつける人もたくさんいる。そういうときは、「別にキリストの誕生は祝っていないと思うけど、サンタさんは来るんだよ。それでお金もうけできる人がいるからね」というと、ある程度納得してもらえる。
 話をサンクスギビングに戻して、と。「あなたの国ではサンクスギビングを祝うか」という質問は言うまでもなく愚問。男の子と女の子の双子の兄妹をみて「あなたのお子さん達はidentical twins(一卵性双生児)なの?」と質問するのと同じくらいおかしい(また余談だけど、近所の人に会ったら天気の話題、子供連れの人に会ったら"How old (is she/he)?"、双子を見たら"Are they identical?"で話の糸口をつかむことができる)。新大陸に渡ってきたピルグリムがはじめての冬を迎えるときに家も食料もなく困っていたときに、ネイティブアメリカン(いわゆるインディアン)が食べ物を分け与えて助けてくれたことに感謝するというのが、サンクスギビングの始まり。そんなもんが世界各国にあるもんかい。幼稚園や小学校ではサンクスギビングの始まりについて繰り返し教えるし、あちらこちらでピルグリムが当時身に付けていた衣装(男子は山高帽に白い大きな四角い衿、女子はツバの大きい白い帽子にロングスカートに白いエプロンが特徴的)を模した服を着た子どもを見かける。それでもいざ、自分の家でのサンクスギビングとなると、家族、親戚、友達などを招待してごちそうをたくさん食べることに矮小化している。わが身の幸福に感謝して、貧しい人に寄付をするってのもありがちだけど、本来の意味で、ネイティブアメリカンに感謝するってことは誰もしないみたい。合衆国のネイティブアメリカンは強制的に移住させられ、言語を奪われ、同化を強いられ、強制的に不妊手術を受けさせられており、貧困、アルコール中毒、心臓病、糖尿病などに苦しんでいる。サンクスギビングを特にネイティブアメリカンを支援する月間みたいにしたらいいのになと思う。
 ところで、言葉を奪って同化を強いるというのは、日本も朝鮮の人に対してやったこと。外国暮らしで言葉に不自由してみると、母国語の有り難味が見にしみる。言葉を奪われるというのはとてもつらく苦しく悲しいこと。そういうことが起こらない世界になってもらいたいと思う。そういう世の中になるように自分に何ができるのかって?うーん、今のところ、自分の子供を優しい子に育てるってので精一杯かな。