初オペラ

 演目は『トゥーランドット』。奇しくも、今うちに来ている妹夫妻が婚約式をやった横浜のレストランがトゥーランドットだった。結婚式まで持たなかった母にとって、最後となった祝いの席だった。驚いたのはトゥーランドット姫の役の歌い手さんが、母に似た「ウマヅラ」だったこと。もう、ものすごく因縁めいたものを感じた舞台だった。
 上記のホームページの著者の方はヨーロッパで観劇されていて、NYでのわたしの経験はいろいろな点で違いはあったけれども、でも着物を着ていってよかった。目線が合わないようにチラチラと見られている感じはしたし、女性は目線を合わせてにっこりすることで、好意を表現してくれる人もいた。幕間に洗面所でおはしょりを直していると、鏡の中で、隣の人が目線を送っているのに気づいたので、あえてそちらを向いたら"That's very nice."と言ってくれた。時間がなかったので、頭や顔のメイクアップに手を掛けられなかったけれども、それでも十分に楽しめた。


 と、初めてのオペラは結果的には無事に観る事ができてよかったのだけれども、実はそれも波乱万丈の果てのこと。せっかく日本から持ってきている着物を着る機会がなかなかないので、子供なしで夫とデートできる今回は、すごくたまにしかない絶好のチャンス!どうしても着たかった。本当は一週間くらい前に着物のコーディネートをしたり、しわをとったりといろいろと準備をしたいところだけれども、今回は急に決まったことであったので、そういう余裕もなかった。当日になって、子供の世話を放棄して一心不乱に着装にとりくんだ。
 わたしが時間がない中、記憶をたどり、着付けのテキストをにらみながら久々に着物を着て帯を締めるのには、たーいへんなプレッシャーがかかっていた。そういうときは、文字通り馬車馬状態。朝、出掛けに、トリケラが普段着、それもボタンが一つはずれたシャツにジーパン、スニーカーという出で立ちだったので、「オペラにふさわしくないから着替えて」と声をかけたものの、着替えている時間もなかったので、午後に合流する際に、わたしが着替えを持っていくことにした。・・・ああ、それなのに、それなのに〜・・・。着物を着るのに夢中で、すっかり忘れてしまった。
 ひーひー言いながら、着物を着て、もう間に合わないかもとあせって車に飛び乗ってしばらく運転してから、「あ、せっかく着物を着てトリケラとデートだから写真をとろうと思っていたのに、カメラを忘れた。」「ん?」しまった!写真どころじゃない、トリケラの服がなーーーい!!
 振り返ってみればこの時点で家にひきかえせばよかったのに、わたしの頭の中はすでにパニック。かくなる上はマンハッタンで買うしかないと思って、ともかく落ち合う約束をしていたトリケラの研究室へまっしぐら。トリケラと目があって最初の一言が「着替えを持ってくるの、忘れた。」唖然としたトリケラ「君がその格好で、ぼくはこのままなの?4時間いったい何をしていたの?」だって〜、忙しかったんだモーン・・・。
 もちろん一番悪いのは自分なんだけど、ミスのあまりの大きさに、とにかく腹がたってしょうがない。それでもちろん「攻撃」の的はトリケラに。あのときにああすればよかった、こうすればよかった、自分の服くらい自分で何とかしてよと愚痴がエンドレス(ごめんね、トリケラ)。沸騰したやかんよりも、もっとわたしの頭から湯気が出てとまらないので、なんとなく自分が悪かったのかな、この場を納めるためには自分が謝るしかないのかなと思わされてしまったトリケラは「ごめんなさい」と謝ってくれちゃった。とってもいい人なのよ、わたしのダーリン。
 ディナーをキャンセルして家に戻って着替えを取るか迷った挙句に、結局は予定の電車に乗った。その頃には、わたしはもう、マンハッタンで上手くトリケラのサイズに合う服が見つかるように祈るしかない心境になって落ち着いていた。ところが、今度はトリケラのほうがけち倹約家で、すでに持っているものを改めて購入するはめになるのが納得がいかず、しかもアメリカで既製服を買う際に合うサイズがめったにないことを思い出して、フィットしないものにお金を出すことに不満をいい始めた。わたしはマンハッタンは広いから、間違った場所で探しまわっては時間と労力が無駄になるけれども、駅で、ちゃんとものを知っている人に聞けば、きちんとして見えるズボンと靴下と靴は入手できるのではないかと思った。
 ペンステーションに到着。トリケラがトイレに行っている間に、靴磨きのお店で黒の靴下を売っているのを見たので、$4の靴下を買うついでに店員さんに、近くに紳士物の靴を売っているところはないか尋ねた。「隣のKマートにあるはず」だという。やった、それだ!
 トイレから戻ったトリケラと早速Kマートに突撃。メンズのコーナーを発見したものの、スポーティーな服ばかりなので、すらりとしたアフリカンアメリカンのお姉さんに、「フォーマルっぽい服を探している」と告げた。着物を着ているわたしが話し掛けているので、先入観から必要以上にわたしの言葉が聞き取れなくなってしまったらしい。ふつうならすんなり通じる簡単な表現も、繰り返したり、言い換えたりしてとにかく要望を伝えると、「この国では、そういうものは”スラックス”っていうのよ」と教えられた。日常では、変な表現をしたり、なまっていたりしても、受け流されるのが普通なので、こういう反応は初めて。着物効果ってところかな。
 お姉さんは親切な人で、一生懸命トリケラの”スラックス”を探してくれた。そして、ウェストも丈もぴったりの紺のものが見つかった。$20。やった!靴もデザインや履き心地を選ぶ余裕があるほどに、幅広で甲が高いものがあった。これは$17。ここまでそろったならと、ついでに白いワイシャツと、簡易式のネクタイも購入。しめて、$60余りで上着なしの似非フォーマルが完成。
 予約の時間に1時間遅れて、メトロポリタン歌劇場内の”高級”レストランに到着。わ、エレガントな大人の雰囲気。せっかくぜいたくをしに来たので、普段なら気にする値段の欄に目をつぶり、とにかく楽しめそうなものを注文した。ワインも前菜もメインもみんなおいしかった。メインのクラブケーキにナイフを入れた瞬間、無事にこんなにすてきなレストランでお食事できる喜びで胸が一杯になって、なんだか泣けてしまった。
 というのも、わたしたちには、新婚旅行で伊勢に行った際、伊勢志摩観光ホテル(だったっけ?)のレストランに入ろうとして、入り口から垣間見た店内の高級な雰囲気に怖気づいて、超空腹、他に近隣に食事できるところがない状況にもかかわらず、引き返さなければならなかったという悲しい思い出がある。もっと立派な大人になって、こういうところにも堂々と入れるようになりたいね、と話し合っていて、今回はその報復戦(?)ができると思っていた。あやうくジーパンを履いているがために、またもや”高級”レストランを諦めなくてはならなくなるかと情けなく思っただけに、Kマートのおかげで大逆転、念願がかなって心底嬉しかったわけ。